M8.8 生涯最初の大規模天災
3月11日 14:30頃
足元のおぼつかない床で自分をささえるのもやっとの状態で、電源の入ったパソコンが倒れないように押さえつけていた。そこにいた誰もが「いつもの地震だ」と思っていたはず。
揺れが数十秒継続し、その揺れ幅が大きくなっていくと次第に皆が「いつものじゃない」と気づきはじめ、おのおのが身の安全を取る姿勢をとった。
あるいは数分にも感じたその揺れがおさまるか否かで社内が停電。無残にも編集中のデータはとんでしまった。
なんだ今のは?
外を見ると、臨海工業地帯の煙突付近から真っ赤な二本の柱がのびており、風に揺られている。
何が起こったんだ?
外にでると、会社の脇にある駐車場が、アスファルトを整備した枠通りにきれいにひびがはいり、そのひびが生き物のように閉じたり、開いたりしている。開くたびにブシューと音を立てながら水と砂を吐き出している。
ふと家族が心配になり、電話をとる。誰とも、どことも、有線でも、携帯でもつながらない。会社には一言「帰る」と述べてそのまま車で逃走!
道路はひび割れ、割れたクラックから噴出す水のため、車が立ち往生しているようす。回り道を選びながら普段は15分で帰れる道を40分以上かけて自宅に帰る。
果たして皆は無事か?帰ると妻の車があった。
「いる!」
急いで階段を駆けりドアを開ける。ドアには鍵がかけられていなかった。
「大丈夫か!!」
叫んで入った部屋からは応答がない。
中に入ると立ててあるもの、棚にあるものはすべて根こそぎ落とされていた。唯一家財の中で最重量クラスのタンスのみがドヤ顔で立っていた。
「よかった」
常に地震で心配するのは、このタンスの下敷きになっていないかということだったから。
妻は、息子は? 外には車があり、ここまでの間に出会っていない。避難したのだろうか?
心配は募る。
比較的大きい余震が続く中、早足で台所に入ると床が濡れていた。
「あぁ 河太!」
水の出所は娘が捕まえてきたカワムツ(魚)の入っていた水槽の水だ。
とっさに魚を探したが、その前に水槽がないことに気づいた。
ということは、妻が水槽を持って避難したんだろう・・・
外に出て自転車を取る。車に比べると災害時の機動力は車より上だ。まず周囲に妻と息子が避難しているか否かを確認する。
娘の友達のお母さんに会い、妻は集会所に避難していると聞き、自転車を引き返し、集会所に向かうと果たしてそこにいた。ほんの数十分携帯電話がつながらないことでこんなに心配したことはなかった。そしてそこにいてくれてこんなに嬉しく感じたこともなかったかもしれない。妻に小学校の娘たちの様子を聞くと、学校からの連絡はないということ。
小学校の様子を見にGIOS PUREFLAT(通称GOUF)を駆る。
学校に到着すると生徒たちは皆上履きのまま、そしてその半数ほどの保護者が校庭に集合していた。
自転車を停車すると先生らしきひとを見つけ「生徒の中にけが人はいませんか?」
と聞くと、「大丈夫です。けが人はおりません」とのこと。
その先生はマイクで生徒、保護者がごった返す校庭に向かって
「保護者の皆さん!生徒の中にけが人はいません。落ち着いて静かに聞いてください・・・」
となだめるように話始めた。
集団の中に娘たちの姿が見えた。この地域は思ったより被害が少ないようで子供たちは少々大きい地震にびっくりしていても、今回の規模の災害にあっているという認識はないようだ。
はしゃいでふざけあっている目の前の子供に
「静かに先生の言うことを聞こう!
学校の外では、車が道路にあふれている。それはひび割れた道路から噴出した水のために立ち往生した車で混雑しているからだ。工場では火が噴出し、多くの人たちが火を消そうと躍起になっている。おうちに帰ったら、棚にあるものは全部落ちているだろう。道には割れた瓦で危ないところもあり、けが人もたくさんでている。
落ち着いて、ふざけないで話しを聞いて!それじゃないと早くおうちに帰れないよ」
自分勝手に自分の子供だけを勝手につれていこうとする親たちに先生たちも少々切れ気味に、
「まだ勝手に連れて行かないでください!」と注意をしている。
やっとのことで子供たちを家に連れて帰ることができたが、その帰り道でも余震は断続的に続いていた。
これが観測史上最大の三陸沖地震によるものであると知ったのは、家のライフラインを確認し水が使用できないとわかった後になる。
トイレに行っても水は流れない、車に乗っても込んでいてどこにも出られない。コンビニには人があふれ、売り物は枯渇している。テレビのニュースやドラマで知っていた天災はこうして身にしみたわけだ。この中でひとつ感じたこと・・・命があってよかったということ。